デビッド・ケルナーのファンタジーa-molを練習した。バッハと同じくらいの古典中の古典である。どうも音数の多い曲が好みの様だと自覚した。曲芸的な演奏を求められる曲も好かない。半音外したら一発でアウト、という側面もあるからだ。“大体”という発想が元々根強く、どうも母親ゆずりではないかと思う。人の所為にしているのではなく、改めて自覚しているところだ。“大体”と言っても、いい加減ではなく、ほぼ100%というラインで満足し、後は愛想でごまかすのだ。それを人間性によるとも言うし、独自の音楽性とも言おう。先ずはテクニカルな部分をクリアした上で語るべしという大前提からすれば、独善的であるのは百も承知だ。しかし音楽とは、自身の表現の手段である以上、ただ音符やf・mf・p・mpなどの指示を正確になぞった音楽らしきモノとは一線を画し、自分が求める音楽であると確信できる。ケルナーのファンタジーも何とか形には成りつつある。発表した際の反応は如何、というところだ。自身としては珍しく相当な練習時間を割いた。テクニカルな部分は時間さえあれば何とかなるのだ。時間をかければ(当然考えながら)、自分なりの完成には近づく。それを周りがどう聴くか、だけである。身体にいろいろとガタが出始めた。ケゲージがゼロとなる日が近づいたのだろう。残された時間で、どれだけの曲を完成させられるか。これからという時になって時間が無いことに気づくというのは、言い古されたはなしだが、実感できるのは、それが自分の身に実際に起きてからしか実感できないのだろう。当然と言えば当然だが、嘆くのではなく、ではどうするかを考えるべきだろう。スポーツの様に、ゴールや到達点が明確であれば計画も立て易いが、それが不明なので如何ともし難い。まぁやれるだけやってみよう。ブルガダ症候群という突然死の可能性が高いとなると、演奏中とか完奏後に、というのが理想だけど。入浴中とか、交差点で、というのは情けない結末となるので避けたいなぁ。さぁ練習々。
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