♭五つ

そもそも♭、#の存在意義は楽典で質されるとおり。理論はそうかもしれないが、弾く方の身になってよ、というのが正解だ。当時16世紀や17世紀には、現在からすれば超人的な奏者が沢山居たらしい。作曲者にしても相当なハイレベル奏者で、ピアノでもギターでも、どうやって連続してその飛躍した押弦が可能なのか、という楽曲が沢山ある。なぜかは不明だが、現代奏者が辿り着き難い領域に簡単に達していた様なのだ。pc楽器が無い時代に、飛躍的で超音階的な楽曲を編み出し、さらにそれを演奏するためには必要なテクニックだったのだろう。だから当時にpcやエレキギターが散在したら、バッハだって当然挙って使っていただろう。無かったから、テクニックに走ったのは当然だろう。時間を超えて、お互いに無いものねだりなのだ。音域・音量で圧倒的なピアノの楽曲は層もレベルも段違いで、他の楽器で奏しようとすれば、調を変えたり、音符を減らしたりしなければ編曲も及ばないのが大半である。ピアノが弾けないからと、他の楽器でそれを奏しようとすれば必然的に原曲に見劣りする事となる。しかし、肝心のピアノで奏される事も少ないとなれば、他楽器で何とか残していきたいと考えるのも理解されたい。が、いくら編曲しても♭と#の数が多すぎて現実問題、困難を極める。方向性というか準解決策は、エッセンスを抽出したオマージュ曲として奏するか、なんちゃって曲として厚顔のそしりを受けつつ演奏するかである。今のところ。何とかしてみよう。残された時間の限り。

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