国会での閣議審議の内容・緊急性・進め方が問われている。SNSでは旧来メディアの偏向・高市批判の恒常化を指摘している一方で、極左やジェンダーレス、世界情勢の嘘か本か不明の論説も多く、いよいよ自分で情報を選択し、より正確な状況把握が必須となっている。ただ、いずれの意見でも気になるのは、“総意か否か”という追求ポイントである。総意で無いなら議論を進めるべきであるし、総意と言い張るなら根拠は?という言い方である。民主主義は総意が大儀だし、ほぼ80%以上の同意が基本だが、愚民政策による誤誘導により、同調させられている部分も多く感じられる。同調しないのは不義であり、反乱分子的な風潮を醸成されている感が強い。全員、有無を言わせず同意というのは全体主義だし、少しの不安・不満・懸念も申し述べられない恐ろしい社会だ。他と隔絶した団体や集団は、得てしてこうした方向にたどり着き易い。そして同調しない者は排斥か抹殺される。「クラシックとは云え、いつまでも同じ曲ばかり演っていたのでは、外部から新たなファンや参加者は集まらない。だから編曲して新たな曲を敢えて演奏する。そうしなければ、クラシックギター界は壊滅するしかない。」「やっぱりそうですよね。そう言っている先生も生徒も多いんです。」という会話が、最近始めたクラシックギター奏者との間で交わされた。ところが、〇〇コンクールetcに血道をあげる人々の耳には届かない。彼らは依然として、古来からの曲や、古来からの棋界作曲者の隠れた作品や、変わった編曲ものに拘る。オタク化しているのだ。コンクールの審査員も古来からの“伝統”に拘り、正確な楽譜の読み込み・再現を演奏者に求め、参加者・演奏者もそれに応えて嬉々としている。誰のための音楽なのか?数人・数十人しか聴かない音楽が、音楽と言えるのか。限られた者が限られた価値観に囚われ、そこでの評価のみを唯一のものとしているなら、それは彼らの総意ではあろうが、その他の大半の者の総意とはかけ離れ、国民の中では異端分子として排斥される方向しか残されていないのではないか。周囲に目と耳を向け、守るべきものと取り入れ・変革すべきことを分けて門戸を開かないと、壊滅しかなくなる。そうはしたくない、そうならない様に動く人々も居る。それが唯一の希望である。
国民総意
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