父が、母が亡くなって、先妻が亡くなってずいぶん経つ。祖父・曾祖母・祖母も相次いだその連環の中で父が亡くなっている。ずいぶん時が経ち、思い出も選別されてきた。何かのきっかけで、そういえば○○は…という感じ。実母の面影を次男は記憶していない、と言う。時間の経過は想いやその人への処し方を変えていく。対象者が生存していない以上、相手の反応は無く、自分裡で考えを整理していくしかない。良く言われる様に、“あの時こうしていれば、こんな時あの人がいれば”は無意味な想定となる。取り返しがつかない、とはまさにその通りで、臍を噛むことになる。時間への認識は錯覚で、時間は存在しないという理論もある。忠犬ハチ公ならずとも、動物には時間感覚は無く、腹が減れば食べ、眠くなれば眠る。朝がきたから起き、仕事に行き、食事して夜になれば眠るという時間を自己規制して生活リズムを刻むという考えは無い。だから主人が死んでも、捨てられても、それが理解できなければ半永久的に待つ、探すという行動に結び付く。理性ではなく、本能に忠実で、それに対する時間制約は感じていない。老化すれば、食べられなくなり、いずれ本能で自身の死が近いことを悟る。死への恐怖は無い、とされる。残り時間が僅かとなる実感と恐怖・諦めに対して、為すべきこと・やりたいことの可否へのあせりは時間感覚あればこそである。亡くなった人へできなかったことは最早取り返せぬ事への諦観と、自身が為すべきことの達成に対しての時間が有るか否かは当然諦観には至らず焦りとなる。失った時間とそれに付随する事象へは諦観しかないが、エックスデーまでの時間をどう有効活用するか考え行動する時間、はまだ有る。過去に縛られ、同類で慰撫し合うだけの集まりに参加して埋没するより、他人の評価より、自分で考え決めた途を進もう。しかし新しい曲は難しい。
無理してもやる
ブログ
コメント