商売としての音楽

プロスポーツの個人別年俸がニュースになる。彼らはプロ、つまりそれで飯を喰っている訳で、実績ベースでの翌年の報酬を、親戚や家族でも無い我々が一喜一憂している訳である。彼らが頑張って、ファンに対して喜びを分け与えたのは事実だろうが、その報酬は彼自身に供与されるだけである。それを喜んでいるファンの心境は今一つ、いやまったく理解できない。応援している人物の幸福は、ファンである自分の幸福という等号式になるのだろうか?ファンとして対象者の活躍を応援するまでは理解できるが、その報酬を一緒に喜ぶというのは如何?大手でなくとも商社やメーカーの一流営業マンを知る者が、その報酬に賛同するのと何が違うのだろうか?そもそもそんな事があり得るか?むしろ、「いろいろ手助けしてあげた、協力してあげた」周囲が、その営業マンの人柄や才能・努力とその報酬に対して素直に喜ぶ事は普通にあり得るのか?プロスポーツ観戦に全く興味が無い身としては、理解不能である。音楽界はどうだろう。才能つまり聴く価値がある演奏ができる者は、演奏会のフィーが加速度的に高まる事となるが、その価値を知る聴衆はフィー=対価を払っても聴きに行く事で釣り合いが取れている。興行会社や遍く音楽界の都合に拠って売り出され、価値を作り上げられた演奏家でも、価値があると観られたら聴衆は納得して聴きに行く。真の実力が無ければ、いずれ淘汰されていくのはプロの世界では当然の事でもある。まぁそこいら辺で納得すべき状況なのかもしれない。同時にアンチプロ=アマチュアでも、真にスポーツや音楽を愛し、“それなりに”認められたい人々は多く居る。そうした人々は、報酬とは反対に、見てもらう事を経費・実費という対価を払って実現している。プロとしての成果に至る時間や努力に代わるものとしての対価である。でも、成功できるという確証の無いリスク・確度の低さの代わりに没頭できる仕事を見つけ努力しつつ、変わらず音楽を愛し、自分なりの音楽を表現したいという者が居るなら、そういう人こそ応援したい、と思う。スポーツも音楽も、プロになるには入口の極挟な世界なのだ。だから準プロこそ応援したいし、応援してもらいたい。

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