涙の日という小題となるモーツァルト未完のレクイエム・葬送曲である。オーケストラ曲を単楽器で奏すること自体に無理がある、というのが定説であろうか。オーケストラ用のスコアを見ると、いくつの楽器パートがあるのか…。それを一つの楽器で、は確かに無理筋であり、編曲しても音符の抜歯はいくつも必要となるだろう。なんちゃって〇〇となるのが現実である。でも別の曲として扱えば良いのであって、それで納得できれば良いのである。原則=正義、という凝り固まった考え方や、それを振りかざす人も両方ともに性に合わない。そういう人々が集まって自らを神格化して、他を見下すのも論外である。日常的に彼らを“オタク”と自分の中では評しているが、現実のオタクはもっと自分たちとそれを取り巻く世間の認識を良く理解していて、ある意味弁えて居る。謙遜や弁えが無ければ、ただ無自覚に驕り高ぶったC・K国人と同じである。だから皆から嫌われる。だから音楽界で、ヤンバルクイナ化しているのだ。何しろ音量は小さく、音域も狭く、王者とされるピアノ・バイオリンと比較して楽器としての存在感は甚だ低いのだ。でもフルートやオーボエだって、同様な特性(劣性)があるのに、しっかりと独自性を前面に出して、オーケストラの中で生き残ってきたのだ。しかしギターという楽器の特性(劣性)の為か、ソロ用楽譜の少ない事よ…。虐められる以上に、無視される生徒の心境である。
ラクリマ・レクイエム/モーツァルト
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