高い視点で俯瞰し未来を予見できるのか、インテリジェンスを糾合して足元を固めるのか。自宅近隣から、県内・近隣県内で楽器を限定せず、規模の大小も限定せずに、所謂音楽教室を探してみた結果に、何と少ない事かと驚いた。ボカロやAIの浸透で、音楽素養がゼロでも、流行る・売れる音楽のデータを打ち込んでいけば、それなりのモノは如何様にもできてしまう。媒体もSNSを使えば、取り敢えず“世には出せる”。マーケティングも駆使すれば、フォロワーを増やし知名度も一定程度は短期間に上げられる。ただし受け入れ側のレンジは狭く、その域をはみ出たら急降下もしくは炎上となるのだろう。AIの現状では、過去データの積み重ねから次の方向性を曲線データで予測して…となるので、予想外の展開もしくは意外な楽曲は現状では出難い。データ数の蓄積・増加で、予想曲線を外れても、受け入れられ易い楽曲も、近い将来には可能となるだろう。ヒトにしか出せないとされてきた“倍音”もデータで解析されれば、“ゆらぎ”音を含んだ楽曲も作成可能だろう。古楽器で楽器の素材や製作過程が解析不能≒再現不可能とされ高額な楽器も同様な方向線状に在ると言えよう。ただ従来のアナログ音が線であるのに対して、デジタル音は点の集合であるという議論には、どのように対応していくのか、浅学な身としては不明である。少子化と働き方改革で学校の音楽部活動は縮小の一途。受験する者は楽器修得にかける時間も無く、能力的に受験から外れた者には、そもそも楽器修得や、音楽修得への知見は期待できない。そりゃあ~教室は成り立たない。音楽理論や数学的解析、作曲家などの歴史的周辺環境など学ぶべきことの多いクラシックへの志向は、その先に経済的未来が開けていない以上、選択する者は少ないだろう。昭和の一定世代には幼少時の家庭にアップライトピアノがほぼ必須で在る風潮が浸透し、尚且つ習った経緯があるという環境が背景なのか、リタイヤした後に再び“弾いてみたい”という願望が湧きおこるらしいが、こうした背景が無い世代に楽器とはどういう存在なのだろう?業界としても、自己評価願望を前面に打ち出した戦略で生き残っていくのだろうか?それとも潰え去っていくのだろうか。クラシックコンサートの聴衆も、高齢者50%、親の趣味か否か不明の年少者40%、10%以下が、自分の意志で音楽を志している若者という比率と感じる。志向の細分化の一環なのかもしれないが、心配である。
大丈夫か?日本の音楽
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