承認欲求

結婚式に出てきた。披露宴とは、かつて“結婚しました。今後この二人でやっていきますので、人生の諸先輩方よろしくお願い致します。ついては、本日皆さんに寄せた楽しい時間にさせていただきます。”という時間だった?が、今は当事者二人のやりたい放題。“今日が人生の最骨頂なので、いろいろ大目に見て下さい。”というニュアンスになってきている。親世代も戦後時間が経っての時代を生まれてから生きてきているので、子供には不自由させたくないし、自分たちも嫌われたくないという想いがヒシヒシと伝わっってくる。イベントとしては楽しい、のかもしれないが、人生の節目としてのけじめ感に欠けるのか、と考えるのは古い体質なのか。親を泣かせる演出も、“自宅で前日に済ませて来いよ”というところである。お涙頂戴の三流映画を招待客として大枚はたいて見せられるのは如何なものか。でも主張したい、それが可能ならば、という想いは十分伝わる。考え方の主張、得意な事の披露、は観客・聴衆が居てこそであり、それが堂々とできる場所・機会は滅多にある事ではない。今の仕事・地位、それが及ばなくともやりたい事や披露したい特技?は、属性が近く、赤の他人よりは応援してもらい易い親戚に訴え且つ認めてもらえるのは最高の機会であり、誰しも望むところであろう。承認してもらいたいのだ。本当は、それらをもっと昇華させ、赤の他人に、或いは広く衆生に認めてもらいたいし、そのための動きや精進をすべきなのだ。だが手っ取り早く数は少なくとも、一定数に認めてもらうのは心の安寧につながる。理解できるが、それで良いの?大変だし、より多くの衆生に認めてもらうのは並大抵ではない。でもそれにチャレンジするのが人生の醍醐味なのでは?大半は挫折するが、そこに至る過程は最期を迎えた時に、自分で何度でも嚙み締められるのではないか。ほろ苦いけれど。他から簡単に認められるものではなく、認められるには時間がかかるのだ。間に合わないかもしれないが、その過程を見ていてくれる人は必ず居る。先ず自分が納得し、一人でも認めてくれたら万歳である。私のラフマニノフを認めてくれる人はいるのかな。

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