タイトな疑問

海外移住して現地でギターの先生として現地(クラシック音楽の本拠である欧米)の人を教えているという人が居る。本場で認められているなら本物、の作成楽譜は価値がある。所謂間違いない、というヤツ。本当にそうなの?マスコミに頻出ししている奏者だから間違いない?本場でも紛い物は沢山居るし、兵庫県知事や安芸高田市長の例を出すまでもなく、有名人と本物は違うのは明らかで、その差を判別できる者は激減している。新書の浸透とリンクしている気がする。題字・表題以上の中身の無い新書を読んで、それを鵜のみにしている者の何と多いことか。今や昔の“夕刊フジ”と似ている。題字で購入しても、中身は推測の範囲を超えず、週刊誌以下の中身も多かった。媒体が紙からSNSに代わっても、受容する大衆は変わらなかったという事か。衆愚・デマゴーグというのはナチズムの時代に浸透したが、本質は変わらないのか。クラシックとされる作曲家の多くの楽譜は、後年様々にアレンジされてきた。当然、休符か無かったり、低音が省かれたり…。作品が書かれた時代や個人的背景は、時間の経過と共に無理が生じ、アレンジも受け入れられ易くなっている。それで良いのではないか?資料として現譜は残すべきだが、それはそれ。良いモノは時代々で変わっても良いのでは?二部休符の長さが違っている、指示速度より遅い、など。原曲を大きく逸脱しない範囲で、アレンジされても良いのでは?無理な運指は、一音削除するとか、テンポを一時的に外れるとか、繰り返しをしないとか。写経ではないので、一言一句トレースしなくても、(推測しようが無いが)作者の趣旨・意図を踏襲した演奏ができれば問題ないのでは?日本のコンテストでは、一音までのミスは上手くリカバリーすれば減点されないそう。つまり、現譜どおりの写経演奏が重用・評価されるという事。真に音楽を目指す逸材が海外を目指すのは当然で、日本の音楽界の時代錯誤と本質逸脱は何とかならないものか。

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