最近は大分グローバライズされたらしいが日本の音楽界・特にクラシック界は独自の進化をしてきたと言われる。英語学習と似ていて、楽典や理論が先行し、一部の学位優位高齢者“せんせい”と言われる人々が全体を抑えてきた。コンテストなどでもミスタッチは論外で、どれだけ正確に弾けるかが問われてきた。音楽性は、無論問われるが、特異な解釈や弾き方は拒否されてきたし、今でもそれは変わらない様だ。楽譜も誰の編曲は良いが、誰はダメとか。無論、その完成度は問われるべきだが、好みもある筈。無名の市井の者が行った編曲など歯牙にも引っかけられず、それによる演奏など、後で編曲者を聞かれて“あぁやっぱりね。ちゃんとした編曲譜を使わないと、低級”的な言われ方をする。敢えて難易度を上げる奏法を指定したりするのは如何がなものか。譜面の完成度も求められるべきとは言え、弾き易い編曲も有り、だと考える。曲の速さや、記号・符号を絶対守るなども同様で、どうしてもできない場合や良い音を出す事を優先してゆっくりにしたり。あまりに自己中で、曲想自体を台無しにしているなら論外だが、そうでないなら演奏者の自由裁量ではないのか。新幹線の運行てはないのだから、速さ・音の強弱など譜面通りになぞられても必ずしも良い演奏(=聴いて楽しい、感動できる演奏)にはならない。英語教育も文法に固執し過ぎたことで、文章読解はできても喋れない、聞き取れないのが日本の英語教育の実際だ。最近はヒヤリングにも注力している様だが、クラシック業界も倣った方がよいのでは。曲やその背景、作曲家…についての説明は必要なら自分で調べるし、今時はグーグルもAIだってある。様々なオタクはオタク同志で知識のひけらかし合いをするのが至福の様だが、ただ音楽が好きな者を巻き込まないでもらいたい。
音楽好きと音楽オタク
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