Bachはオルガン曲の作曲が元々の人である。後年、その他の楽器向けの曲も多作したが、元々が、ということから、オルガン以外の“~のための~“という曲もオルガンで弾き替えし易かったりする。音の範囲や音符の並び方が似ているからである。元々がピアノ曲だつたりすると、左手が低音ギリギリもしくは低音ばかりで、右手が高音ばかりか高音に留まったりすると、たの楽器では対応困難となる。畢竟、主旋律を重視してかけがえのないその他の音符を蔑ろにせざるを得なくなる。結果、何とも腑抜けた楽曲となる。シャンソンを演歌歌手が歌うと上手いのだが、演歌になってしまう。シャンソンではなくなるし、違う楽曲として受容せざるを得なくなる。別物として批評家することになる。元曲を好きだから、リスペクトしているから、自分なりに消化(昇華)して表現しているのが、いわゆるカバー曲である。演歌の“こぶし”や、“サンプリング”はカバー曲には先ず入らない。違う表現を用いている。そのまま取り入れたら“ものまね”になったりするのだろうし…。という紆余曲折というか言い訳を捻り出しつつピアノ曲のギター曲への変換がいかに難しいかということである。序破急の三層の曲が、序急序となったりする。まぁこんなものか…ていう妥協の産物に成りかねない、というか成るケースがかなり多い。調を変え、音を削除もしくは別の音を入れて何とか曲として設立させているものもあるが、得てして元曲とは別物となっている。ただ、その場合の完成度は高く、別物とはいえすばらしい。「その曲、元は○○?全然違うね、やっぱり元曲の方が良いねぇ、まぁ頑張っているけれど。」と言うオタクも多い。なんちゃって曲なら甘んじて受け入れるが、元曲の曲想を引き継ぐ以上の独創性がある曲なら、オタクの指摘は受け入れられない。マグロは大間、と言って譲らず、他の意見を受け付けない食通気取りと同じ匂いがする。
本来の楽想
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