哲学の差

キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、元はイエスキリスト絶対神は変わらず、崇める方法の違いで異なるだけ。絶対神=正に対して、人間=悪で、生涯罪を背負って贖い続けるというのが人間となっている。大分端折ったがおおよそそんな感じ。対して日本だけは、神さんは何でも赦すし、余程の事をしなければ極楽浄土に行けるという感じ。かなり異なる。それが哲学となって生活の根底にあるから、キリスト教(上記のすべてを含む)の界隈の人々は、何か正しくない事をしたり、している人を見ると罪深いとして贖罪を求めたりする。音楽にも、そうした贖罪精神が随所に潜んでいたりする。だから基本、暗く、曲に何かメッセージを込めたりすることが多い。そうではない楽曲も多いが、得てしてティーンズ向けの曲として尊重されないケースが多いと聞く。贖罪が込められていたりすれば重く、対位法で作曲された楽曲などは荘厳且つ感動的であったりする。ある意味当然だろう。比較すれば日本の楽曲は軽量級となる。ただ、“神”は存在せず、人と人との間の感情の齟齬や行き来が主題となるケースが多く、聴衆に届き易いとも言える。かつてのプログレッシブロックと歌謡曲などの対比が象徴的と言えるかもしれない。珍しさと荘厳さに惹かれたかつての日本人も、居もしない神さんより身近な対人関係を歌った曲の方に回帰している昨今は当然の帰結とも言えるのか。対して、小難しい歌詞より、日本の日々の人間の機微を歌った曲に引き寄せられるのはある意味当然なのかもしれない。もちろん傾向として言っているので、全てがそうとは言っていないし、実際そうでないキリスト教(上記のすべてを含む)の界隈の人々も大勢居る。クラシックくの場合、これらの背景を無視すれば、単純に“良い”曲が沢山あり、音域が狭く、音量の限られたギターで弾きたい曲も多いが、如何せん変調にも限界があり、エッセンスの音だけ弾くことに成りかねない。当然、原曲には遠く及ばないケースが続出する。「ギター用に作られた曲が沢山あり、それらをすべて弾くだけで一生が終わる。他に目移りしている場合ではない。」などと、棋界の大家や講師は宣う。それしか音が出ないから、運指の関係でそれしか表現できないから、という理由で作られた曲も多かった筈。無論、自身の技量では弾ききれない難曲も沢山ある。何十鍵もあるピアノで自在に表現する楽曲を、制限の多いギターでどこまで再現できるのか、は試してみたいし、そうした試みを一言のもとに却下したであろう当時の楽界の重鎮が居ない現代で、これを試すのに誰が反対できよう?絶対神の元、こうあるべき、から、いやいや神さん居ないし、曲として成立し、誰かが良いと言ってくれたら、それで良いのでは?ローマ教皇は一条の教えの解釈を変えるのに何十年何百年とかける様だが、教義=哲学が教義=言葉のこねくり回しになっているのでは?まぁ教義以上に政治的側面が強い様だが。音楽を奏でる理由は、楽しい・感動するだけで良いのでは。

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